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​城崎温泉の歴史

​1 伝説

城崎温泉は、約1400年前の舒明天皇の頃、大谿川上流の大きな松の木の上に鴻の鳥が巣をつくっていた。そのうち、足をいためた1羽の鴻の鳥が、田に降り立って水に足を浸していたが、やがて数日後、元気よく飛び立っていった。これを見た里人がそのあとを調べてみると、湯がわいていたという。これが「鴻の湯」の始まりである。また、天正天皇の養老元年(717年)に、道智上人がこの地を訪れ、難病の人たちを救うため千日の間、難行を修め、その満願の日(養老4年)の1月8日の明け方、8か所を選んで掘り下げると「天より華雨降り、地より沸々と温泉が沸いた」ので、里人達は「まんだら湯」と名付けたと伝えられている。

2 昔の温泉

その後、鎌倉時代には「御所湯」、江戸時代になって「一の湯」「柳湯」「地蔵湯」がつぎつぎとできた。(昭和37年9月に、地蔵湯を分湯してできたのが「さとの湯」{現在駅前にあるものではない}である。)

その浴効と山川の美しさが次第に知れ渡り、京に近いため、多くの貴族や高僧・文化人が訪れるようになった。

特に、文化4年(1808年)柴野栗山が風光と療養の地として推奨してからは、広くその名が知られるようになった。それ以来、城崎に来遊する人の多くは知人縁者を頼って宿とし、日々の食事は自ら賄っていた。温泉寺の記録によると、明治の終わり頃までは、入浴に来た者は「まず、温泉寺に参詣し、寺から祈祷した湯杓を受けて、入浴中は大切に使用し、帰郷の際は湯杓を寺に納めて感謝の意を表した」と記されて、この湯の里には信仰と人情のあふれた情緒がかもし出されていたようである。

城崎温泉が次第に世に知られるようになり、客層が大衆化してくると公然と宿料をとるようになって、旅籠として発達し、徳川の中期には屋号がつけられ、末期には「修進社」と称する宿屋組合もできた。当時の宿屋は63軒といわれ、いずれも代官から官許を受けていた。そして、源泉と6か所の外湯は宿屋組合から選出された「湯方」が管理運営を行っていた。

​3 明治・大正時代

外湯はすべて共同浴場で、これの入浴については、地元民は古くから無料であったし、浴客の入浴料も極めて安かったので、その経営にあたった宿屋組合は、外湯の増改築等に費用がかかり、その維持が困難になってきて、明治22年に湯島村が施行されるに及んで、これらの管理運営は湯島村に継承された。

明治28年、湯島財産区にこれが移管されたが、その頃の湯銭は1まわり(1週間)が3銭から10銭であった。その直後、日清戦争の不況にあって浴客も減少し、63軒の宿屋もわずか28軒になって、町はひどくさびれた。

しかし、町民が一丸となって努力し、日露戦争の傷病兵の療養地として指定され、また明治43年、山陰線の鉄道開通によってにわかに活気づき、浴客も従来の京都方面だけでなく、阪神その他からも次第に多くなって、大正14年の北但大震災まで日々賑わい繁栄した。

​4 北但震災と復興

大正14年5月23日、円山川の河口沖約8㎞で起こった海底地すべり地震で、全町ほとんど壊滅し廃墟と化してしまった。その損害額約1,200余万円、死者272人、負傷者198人で、当時の宿料が1円前後であったことから、その被害の大きさの程が推察できる。幸いにして、源泉には大した影響を受けなかったので、町は復興計画委員会(町・区議会議員24名)を設け、町民一丸となって立ち上がった。

温泉街復興の第一として、まず温泉浴場(外湯)の復旧が進められ、大正15年から昭和7年に至る間に6か所の浴場は全部新築され、土地区画整理に協力し、外湯を中心とした旅館・商店・街並み等、現在の城崎温泉の骨格が昭和10年に概ね完成した。

当時、城崎温泉の指向として、あくまで伝統を重んじそのときの文明を最大限に吸収して、清潔な大衆的温泉地として、発展計画から保養温泉地の形態を採っているといわれている。したがって、町づくりは「共存共栄」の精神が一貫して貫かれ今日に至っているが、このため、後で述べる全国的にもまれな内湯訴訟事件が発生したといえる。この事件のため、行政的にも経済的にも城崎温泉の発展は一時停滞し、その上、昭和12年から昭和20年までの日支事変に続く第2次世界大戦の長い間、城崎温泉の伸展は全くなかった。

戦後、国づくりの方向が「文化国家の建設、国土開発、観光産業の推進」と大きく打ち出され、戦争中、大きな打撃をこうむった全国の温泉地は急激な息吹を開始し、新時代への温泉地の形態は、めざましい変化を始めた。

​5 内湯問題の解決

かかる情勢にあって、前述の全国的にも有名な城崎温泉内湯訴訟事件が昭和2年から23年間の長きにわたって紛争を続けたが、この事件は、昭和2年に甲旅館が所有敷地内に湧出する温泉を甲旅館内に浴槽を設けて、利用しはじめたことから端を発し、温泉の利用権を巡り、湯島財産区との間に起こった紛争であった。

この事件が、昭和25年3月に双方が妥協し、円満に和解が成立したのは、その根本精神に城崎温泉伝統の「共存共栄」があったからにほかならない。

この時点で、城崎温泉の場合、温泉の利用権はすべて湯島財産区にあることが確認されるとともに、外湯と内湯併置の原則をたて、しかも内湯に対しては色々と厳しい規制をすることにより「共存共栄」の実をあげようとする城崎温泉のみに通ずる方式が生まれた。

​6 戦後・現在

この和解成立後「城崎温泉新泉源掘さく拡充計画」がたてられ、先進地の見学、新泉源の調査、掘さく配湯計画等、幾多の苦難を克服し、1・2本目が失敗、財政的にも継続することが困難となり、兵庫県の助成を受けて、掘さく機を購入して直営方式により3本目で成功した。9本目のボーリング(中学校バックネット裏)が成功した昭和31年1月温泉を旅館に配湯することに踏み切り、同年10月城崎温泉有史以来の旅館内湯配湯が実現し、外湯のうえにさらに精彩を加えることとなった。

このように外湯・内湯への温泉の有効利用と総合管理を図るため、次に述べる温泉集中配湯管理施設ができあがったのである。

昭和49年のオイルショック以後、エネルギー問題が色々と取りざたされ、特に今日では省エネルギー時代へと移行しつつあるなかで、この集中配湯管理施設は、これに対応する一方策ともいえるものである。

こうした配湯施設の完成によって、後で述べる効果が表れ始めた。
集中管理施設が完成後10年経過する中で、180t貯湯タンクの老朽化に伴う改修工事のため、昭和57年12月には、100tの貯湯タンク1基を増設した。

また、温泉の多目的利用と新しい浴場開発を想定し、昭和60年12月にはNo.25、26号泉、昭和63年9月にNo.27号泉、また平成6年12月にはNo.28号泉として城崎温泉で最深度のボーリングを行い、高温、多量の泉源開発に成功して、更に豊富かつ適切な供給が図れる体制が整った。

こうした温泉に余裕が出てくる状況の中で、過去より今津、桃島地区の宿泊施設から温泉供給の要望の声も高まり、財産区として区民のアンケート調査を実施し、この結果を踏まえて平成10年にはタンクローリー車による湯島区域外への温泉配湯を行うこととなった。

なお、外湯も30年以上経年した浴場や、北但大震災後に建築され改築を重ねてきた浴場の老朽化が目立ってきたうえに、全国的な温泉ブーム等による入浴客の増加に伴い平成元年に策定した外湯総合基本構想に基づき“魅力ある外湯”をめざし、建物の景観並びに設備改善をすることとして、平成3年4月グレードアップした「鴻の湯」新浴場が、平成4年には地蔵湯、さとの湯を統合した新「地蔵湯」が完成した。

また、平成11年度には、町の中心部に位置し城崎温泉の中心的な浴場である「一の湯」も新たに洞窟風呂を取り入れた浴場に全面改築し完成、更に平成12年度には、「まんだら湯」も裏山を借景とした露天の桶風呂を取り入れた浴場に全面改築し完成した。

さらに、城崎駅に近接した場所に七つ目の外湯として従来の浴場にはなかった、各種サウナやバイブラバス、また、3階には円山川を一望出来る露天風呂を設置した「さとの湯」が平成12年7月に完成した(令和6年4月1日から長期休業)。平成16年2月には、「柳湯」が木造で大正ロマン風に全面改築された。

このように外湯の個性化が図れたのも集中配湯管理施設に得るところが多い。

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